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幸福度調査

憂楽帳:幸福度調査

 英国の研究者が最近発表した世界各国の「幸福度順位」で、日本は178カ国中90位という低位だった。「やっぱり」と思った。
 5年前まで香港で発行されていた週刊誌「アジアウィーク」が毎年、「アジア各国の幸福度調査」を掲載していた。「あなたは幸せですか」という質問に「イエス」と回答した比率を比較したものだ。この調査では十数年前からフィリピン、タイ、インドネシアなど東南アジアの多くの国が軒並み90%を超えていたのに、日本は60%台のままだった。日本人が「あまり幸せではない」と感じる傾向に今も変化はないようだ。
 経済的指標である1人当たり国民所得で比較すると、日本はこれらの国の36〜15倍もある。経済的豊かさは必ずしも心の豊かさにつながらないということだろう。
 かつて赴任先のフィリピンから日本に帰った時、笑顔の少なさに気分が落ち込んだ。今度は日本からタイに来て、社会にうるおいを感じ、ストレスの少なさを自覚する。外国で暮らしている方が幸せだと感じることは、日本人として悩ましい。

憂楽帳:幸福度調査

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『日本沈没』の確度

『日本沈没』の確度

 夏休みに話題の映画「日本沈没」。作品中では“メガリス”とよばれる地下の巨大な岩板が沈没の鍵を握っている。実際、地球物理学の研究で、メガリスのようなものが地球の歴史を左右する役割を担っている、と考えられるようになってきた。日本は本当に沈むのか。 (永井 理)

 「実際に沈んだ島もあります」。海洋研究開発機構の深尾良夫・地球内部変動研究センター長は話す。

 日本の南方、フィリピン海の中央には「九州パラオ海嶺(かいれい)」と呼ばれる海底山脈が南北約三千キロにわたり延びる。「この海嶺も小笠原諸島のような島々だったと考えられる。太平洋プレート(岩板)の沈み込む位置が変わり海底に沈んでしまった」という。

 一九八〇年代以降、地震波で地球内部を見る地震波トモグラフィーが確立すると、プレートの動きを左右する「スタグナントスラブ」の存在が明らかになってきた。日本海溝から大陸の下に潜り込んだ硬い太平洋プレートは、深さ六百六十キロ周辺にとどまっている。その大きさは日本海から中国にまで約千キロ以上に及ぶ。沈まずに停滞していることから「スタグナント(よどんだ)スラブ(厚板)」と名付けられた。

 また、深さ二千九百キロのマントルの底には、スラブの残骸(ざんがい)らしきものがあるのも分かった。深尾センター長は「スタグナントスラブがある程度たまると、プレートからちぎれてマントルの底へ沈む」と考えている。インドネシアやメキシコなどでも同じ現象が見つかっている。

 停滞したスラブの大きさなどから前回の落下は四千−五千年前とみられる。ちょうどこのころ、太平洋プレートの動く方向が北から西北西になったことが知られている。深尾センター長は「プレート北側にぶら下がっていたスタグナントスラブが落下し、プレートに働く力のバランスが変わり移動方向も変化した」と考えている。

 スタグナントスラブはなぜたまり、落ちるのか。

 深さ六百六十キロは上部マントルと下部マントルの境目だ。この境界より深い部分は岩石の結晶が変わる「相転移」が起きて比重が上がる。プレートのように冷えて硬い岩板は結晶の変化が遅く、六百六十キロですぐに相転移せず比重が小さいため沈めないのではないかという。下部マントルの粘り気が強く、スタグナントスラブを支えている効果も大きいという。

 スラブの動きを計算機シミュレーションしている吉岡祥一・九州大助教授は「スタグナントスラブが切れ落ちるところまで模擬するのは工夫がいる。地震観測だけでは、速さなどの時間的な変化が分からない。動きを検証するため重力の時間変化が測定されている」と話す。

 落下時期や速度は、現在はまだ分からない。

 「日本沈没」を監修した東大地震研究所の山岡耕春教授は「日本が沈没するには、地殻がすくなくとも百キロぐらい動く必要があり、百万年はかかる」と話す。

 私たちの生活にすぐには関係なさそうだが、スタグナントスラブがどんな状況で沈み、プレートの動きが変わるのか、これからの大きな研究課題だ。

<メモ>地震波トモグラフィー

 地震波が伝わる速度は、冷えて硬い岩石では速く、熱く軟らかい岩石では遅い。このため多くの観測点で、さまざな角度からくる地震波の到達時間を計ると、地中のどこが硬く、どこが軟らかいかを計算して図示できる。エックス線で人体の断面を映像化する医療用CTと同じ原理だ。

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「昭和戦争」読売新聞検証報告

「昭和戦争」読売新聞検証報告 戦争の惨禍、指導者責任=見開き特集

 ◆独断と無謀 多大な犠牲 日本の軍・官・政を総括
 満州事変を引き起こし、日中戦争に突入したのはなぜか。どうしてアメリカと開戦し、無謀な戦いを継続したのか。原爆投下は避けられなかったのか−−。これらの問いに答えを示そうと、本紙は1年間にわたって「昭和戦争」の検証にあたってきた。この戦争の各局面で責任を負うべき政治・軍事指導者や幕僚、高級官僚はいったい誰なのか。検証結果を踏まえて、その責任の所在を明らかにする。
 ■満州事変
 ◆戦火の扉開いた石原、板垣
 昭和戦争の出発点は、1931年(昭和6年)9月に起きた満州事変にある。それを引き起こしたのはいったい誰だったのか。首謀者は、関東軍参謀の石原莞爾(いしはらかんじ)と板垣征四郎(いたがきせいしろう)である。
 「謀略により国家を強引する」という、陸軍中佐・石原らの満州(現中国東北部)への侵略行動は、文字通り日本を戦争へと引きずり込んでいった。
 石原の軍事思想の核心は、日米両国が東西両文明の盟主として、戦争で世界一を争う世界最終戦論だった。28年(昭和3年)1月、陸軍大学校出身のエリート将校の集まり「木曜会」で、石原は、「全支那を根拠として遺憾なくこれを利用すれば、20年でも30年でも戦争を継続することができる」と指摘した。
 同年6月、板垣の前任の河本大作(こうもとだいさく)が列車を爆破し、軍閥の張作霖を殺害した。この事件が満州事変の先行モデルとなる。
 関東軍は、奉天郊外・柳条湖で満鉄線を爆破し、1日で奉天を占領した。参謀本部から派遣された建川美次(たてかわよしつぐ)少将はこれを制止しなかった。奉天の臨時市長には奉天特務機関長の土肥原賢二(どひはらけんじ)が就いた。
 関東軍は、守備範囲を超えて吉林省へ進撃を開始した。関東軍司令官・本庄繁(ほんじょうしげる)は、吉林出兵に当初反対したが、板垣の執拗(しつよう)な説得に根負けし、出兵を決断した。朝鮮軍司令官の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)も、独断で朝鮮軍を満州へ派兵した。石原たちと連携していた朝鮮軍参謀の進言に従ったものだった。
 板垣たちと緊密に連絡を取り合っていたのが橋本欣五郎(はしもときんごろう)だ。橋本は革新派青年将校を集めて「桜会」を結成、これを足場として満州事変前後に、二つのクーデター未遂事件「三月事件」「十月事件」を起こした。三月事件は、陸相宇垣一成(うがきかずしげ)を首相に擁立しようとしたもので、軍務局長の小磯国昭(こいそくにあき)らも関与した。
 十月事件は、満州事変と連動した動きでずさんな計画だったが、のちの五・一五事件、二・二六事件など頻発するテロ、クーデター事件の先駆けをなした。
 南次郎陸相は、満州事変前から対満蒙強硬論者だった。朝鮮軍の独断出兵を南から聞かされた若槻礼次郎(わかつきれいじろう)首相は、あっさりと容認した。現地軍の暴走を「政治」が抑止できず、追認してしまう病弊はここに始まる。
 事変発生から半年足らずの32年(昭和7年)3月1日、満州国建国が宣言される。満州国元首(執政、のち皇帝)に清朝の廃帝・溥儀(ふぎ)を担ぎ出したのは土肥原だった。
 この間、戦火は一時、上海に飛び火した(第1次上海事変)。上海公使館付武官補佐官の田中隆吉(たなかりゅうきち)が仕掛けたものだった。田中は、建国工作から列国の目をそらせるため、上海で謀略を行うよう板垣から指示されていた。
 間もなく犬養毅首相が暗殺される(五・一五事件)。後継の斎藤実(まこと)内閣は、満州国を承認した。衆議院はこれに先立ち、満州国承認決議を全会一致で可決した。また、内田康哉(うちだやすや)外相は衆議院本会議で、満州国承認を必ず貫くという「焦土演説」を行った。内田に質問した政友会の森恪(もりつとむ)は、満蒙権益を声高に主張する代表的政治家だった。
 国際連盟のリットン調査団報告書が日本に示されると、荒木貞夫陸相はこれを酷評し、連盟からの脱退を主唱した。犬養、斎藤両内閣を通じて陸相だった荒木は、関東軍の行動を公然と支持した。リットン報告書は、一方的に日本を非難する内容ではなく、満州に広範な自治政権をつくることも提案していた。しかし、国際連盟総会で、リットン報告に基づく勧告が採択された際、日本だけが反対し、日本代表の松岡洋右(まつおかようすけ)は、国際連盟脱退を通告して退場するというパフォーマンスを演じた。
    ◇
 【責任の重い人物】
 石原莞爾(関東軍参謀)、板垣征四郎(関東軍参謀)、土肥原賢二(奉天特務機関長)、橋本欣五郎(参謀本部第二部ロシア班長)

 ■日中戦争
 ◆近衛、広田無策で泥沼突入
 戦争を日中間の全面戦争へと発展させてしまった責任は誰にあったのか。
 1937年(昭和12年)6月4日、第1次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が発足した。日中戦争の発端となる盧溝橋(ろこうきょう)事件が起きたのは、その1か月後の7月7日のことである。
 盧溝橋事件自体は偶発性が高く、冷静に対処していれば本格戦争を回避できる可能性があった。事実、4日後の7月11日には現地停戦協定が成立、局地的には解決へと向かっていた。
 しかし、その同じ日、近衛内閣は華北への派兵声明を発表し、軍事的なエスカレーションに火をつけてしまった。
 近衛は、派兵の決定や、当初の不拡大方針を事実上転換した「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」声明、トラウトマン和平工作、国民政府との交渉を閉ざした第1次近衛声明(「国民政府を対手(あいて)とせず」)などの重大局面で、指導力を発揮しようとしなかった。
 戦争初期、蒋介石との頂上会談を計画したほか、国民政府へ密使を派遣しようとするなど和平を模索したのは事実だが、陸軍などの反対に遭うと腰砕けになった。
 広田弘毅(ひろたこうき)外相は、最初の内地3個師団派兵を決定した五相会議とこれに続く閣議で、近衛とともにほぼ沈黙を守った。また、杉山元(すぎやまはじめ)陸相、米内光政(よないみつまさ)海相らとともに、国民政府との和平交渉の打ち切りを主張した。
 広田は日中戦争に至る過程で、外相、首相、再び外相と、長く外交のかじ取りをした。二・二六事件(36年)後、首相として、軍部大臣現役武官制の復活、南方進出を定めた「国策の基準」、日独防共協定の調印など禍根を残す決定をした。
 日中が全面戦争に入る道を用意したのが華北分離工作だった。
 工作を担った中心は、土肥原賢二・奉天特務機関長であり、酒井隆・支那駐屯軍参謀長、高橋坦(たかはしたん)・武官補佐官らが動いた。彼らは「梅津・何応欽(かおうきん)協定」、「土肥原・秦徳純(しんとくじゅん)協定」を成立させ、河北、チャハル両省から国民党機関を排除するのに成功した。35年11月、土肥原は河北省東部に「冀東(きとう)防共自治委員会(政府)」という傀儡(かいらい)自治政府をつくった。
 陸軍は「支那は統一せらるべきものにあらざること」と考えていた。板垣征四郎・関東軍参謀副長は、日本が中国の個々の地域と直接提携する「分治合作論」を唱えていた。
 中国では、36年には西安事件が起き、第2次国共合作へと向かう。抗日機運の高まりは、日中間に一触即発の状態を作り出していた。
 日中戦争当初、陸軍の中枢は拡大派と不拡大派に割れた。石原莞爾・参謀本部作戦部長は不拡大方針をとった。部下の作戦課長・武藤章(むとうあきら)は、石原の意向に逆らい、田中新一・陸軍省軍事課長と連携して、積極的に派兵を推し進めた。「下克上」に苦しめられた石原は、関東軍参謀副長に転出するまで内地の13個師団を動員した。
 陸相の杉山は拡大派だった。杉山は首都・南京陥落後、講和条件をつり上げ、和平のチャンスをつぶした。南京攻略を軍中央に強く進言し、総指揮を執ったのが中支那方面軍司令官の松井石根(まついいわね)だった。攻略時、捕虜や民間人への虐殺や暴行が多発した(南京事件)。第十六師団長・中島今朝吾(けさご)らの部隊で軍紀の低下が著しかった。
    ◇
 【責任の重い人物】
 近衛文麿(首相)、広田弘毅(首相、外相)、土肥原賢二(奉天特務機関長)、杉山元(陸相)、武藤章(参謀本部作戦課長)

 ■三国同盟・南進
 ◆松岡、大島外交ミスリード
 米国との戦争は、「日本の自衛戦争だった」という主張がある。これらは、米国の石油禁輸措置や開戦直前の「ハル・ノート」などを根拠にしている。だが、米国の対日圧迫は、日本側の「誤断」が招いた面が強く、日本は自ら隘路(あいろ)にはまりこんでいった。誰がどう誤ったのか。
 第一に、その最大の過ちというべきものが、日独伊三国同盟の締結(40年9月)だった。それを推進した松岡洋右外相は、日独伊にソ連を加えた「四国協商」によって米国に譲歩を迫るつもりだった。
 しかし、三国同盟は、まさに米国に対する軍事同盟になっており、すでに対日経済制裁に踏み切っていた米国を一層硬化させてしまった。しかも、締結当時、ドイツは英国本土上陸作戦を断念し、対ソ戦への転換を模索していた。
 ドイツ勝利を妄信し、偏った情報を本国に送り続けていたのが、駐独大使の大島浩だった。松岡の構想が独ソ開戦(41年6月)で崩れた時、日本は三国同盟を破棄して、対米関係改善に転じることも考えられた。しかし大島は、独ソ戦の開始直後に「4週間にて(ドイツ勝利で)終わる」と報告するなど、ドイツ有利の情勢判断を流し続けた。
 駐イタリア大使の白鳥敏夫は、「革新外交」を唱道した。親独・反米姿勢のために冷静な国際情勢判断を欠き、外交路線を誤らせる結果となった。
 海軍はもともと、対米戦争につながることを懸念して、三国同盟の締結には抵抗していた。しかし、海相に就いた及川古志郎(おいかわこしろう)は、賛成に転じた。
 陸軍は、第1次近衛、平沼騏一郎(きいちろう)両内閣の時から三国同盟を推進していた。消極派の米内光政内閣をつぶすため、畑俊六(はたしゅんろく)陸相に辞表を提出させる。軍部大臣現役武官制を利用したもので、武藤章軍務局長らが背後で動いていた。
 三国同盟と並ぶ過ちは、南部仏印(フランス領インドシナ)進駐(41年7月)だ。米国は日本の南方進出に神経をとがらせ、幾度も警告を発していた。進駐直前、野村吉三郎駐米大使は石油禁輸の可能性を打電していた。
 南部仏印進駐を主導したのは海軍だった。軍令部総長の永野修身(ながのおさみ)は進駐を強く主張した。蘭印(オランダ領東インド)の石油を軍事的に奪取するなら、英軍基地のある英領マレーを攻略する必要がある。そのために南部仏印に基地を設けることが不可欠というのが、永野の発想だった。
 だが、米国が英国支援のために、欧州戦争に参戦しようとしている中、「対英」戦争が「対米英」戦争に発展する恐れがあるのは明白だった。
 永野の判断に大きな影響を及ぼしたのは、親独・反米傾向が強い海軍の中堅幕僚だった。「米国相手でも負けはせぬ」と息巻く彼らのリーダー格が軍務局第二課長(国防政策担当)の石川信吾(いしかわしんご)。石川は、永野らに南部仏印進駐の断行を迫る意見書を起案した。
 石川はまた、対米開戦の判断で重要な要素となる船舶損耗量など物的国力判断でも、米国の国力を過小評価した。
 三国同盟は松岡らが、南部仏印進駐は永野らが、それぞれ主導した。とはいえ、これらを国策として最終決定し、対米戦争へと誘引したのは、時の首相、近衛文麿だった。
    ◇
 【責任の重い人物】
 近衛文麿(首相)、松岡洋右(外相)、大島浩(駐ドイツ大使)、白鳥敏夫(駐イタリア大使)、永野修身(軍令部総長)、石川信吾(海軍省軍務局第二課長)

 ■日米開戦
 ◆東条「避戦の芽」葬り去る
 日本の国力で対米戦を戦えるのか−−という冷静な判断力を失ったまま、どうして、日米戦争に突入したのか。陸軍で主戦論を説いたのは、首脳陣では参謀総長の杉山元、参謀次長の塚田攻(つかだおさむ)、作戦部長の田中新一、中堅幕僚では、服部卓四郎(はっとりたくしろう)作戦課長、佐藤賢了(さとうけんりょう)軍務課長らだった。
 海軍では、軍令部総長の永野修身をはじめ、軍務局第二課長の石川信吾ら中堅幕僚が主戦論を唱えた。
 対米戦に内心では不安を抱きつつ、主戦論者に引きずられた者も少なくなかった。及川古志郎海相は、東条英機(とうじょうひでき)陸相に問いただされると、米国に勝てる自信はないと答えていた。及川海相の後任の嶋田繁太郎(しまだしげたろう)や海軍省軍務局長の岡敬純(おかたかずみ)らも確たる信念を示さなかった。
 とくに岡は、「海軍は戦争を欲せず」と表明すれば陸軍も従う、という武藤章・陸軍省軍務局長の提案を蹴(け)っていた。ここに一つの避戦のチャンスがつぶれた。
 開戦の1年前、1940年(昭和15年)暮れから、第2次近衛内閣は戦争回避へ米国との交渉を始めていた。
 しかし、三国同盟締結という危うい賭けに出た松岡洋右外相は、スターリンとの間で日ソ中立条約(41年4月)を結ぶなどの動きに出て、日本外交に亀裂が生じた。
 松岡は、民間主導の日米交渉に強く反発し、陸軍も、和平条件の中国からの撤兵に強く反対して、日米交渉は暗礁に乗り上げた。近衛は松岡を更迭し、ルーズベルト大統領との直接交渉で打開をめざした。しかし、撤兵を認めない東条陸相の猛烈な抵抗に遭って、41年10月、またもや政権を投げ出した。
 後継首相に東条を推したのは木戸幸一内大臣だった。木戸は、第2次近衛内閣以降、首相選びに深く関与していた。木戸は、天皇の意思として、開戦方針の白紙還元を東条に伝え、東条は一転、「避戦」に向かう。しかし主戦論の強い同じ顔ぶれで議論しても事態は変わらず、東条は任務を果たせなかった。東条推薦は、木戸の明らかな誤算だった。
 企画院総裁の鈴木貞一(すずきていいち)は、戦時経済体制の調査・立案にあたる企画院の責任者として、物資の面から戦争継続能力に疑義を唱えうる立場にあった。鈴木は、近衛内閣当時、「蘭印の石油産地を占領しても、破壊されるので、石油の入手は困難」と報告していた。
 ところが、開戦直前の国力判断では、一転、南方作戦を実施した場合、石油は「辛うじて自給可能」と前言を覆し、開戦した方が「国力の保持増進上有利なりと確信する」と主張して、開戦を後押ししたのだった。
 開戦決定の主たる責任は、天皇を輔弼(ほひつ)する立場にあった首相の東条をはじめ、外相の東郷茂徳(とうごうしげのり)、蔵相の賀屋興宣(かやおきのり)ら内閣の各閣僚に帰せられる。ただ、東郷や賀屋は、閣内で避戦を強く主張していた。
 一方で、海軍はハワイ作戦の準備を進めていた。連合艦隊司令長官の山本五十六(やまもといそろく)は、投機的とも評される真珠湾攻撃に打って出た。この際の対米通告は、現地大使館の不手際で遅れ、「卑劣な日本人」という対日非難を生むことになった。
    ◇
 【責任の重い人物】
 東条英機(首相兼陸相)、杉山元(参謀総長)、永野修身(軍令部総長)、嶋田繁太郎(海相)、岡敬純(海軍省軍務局長)、田中新一(参謀本部作戦部長)、鈴木貞一(企画院総裁)、木戸幸一(内大臣)

 ■戦争継続
 ◆東条、小磯連戦連敗を“無視”
 日本軍は、無謀な作戦を継続した。なぜ、戦局の転換点を見過ごしてしまったのか。
 最初の大きなつまずきは、ミッドウェー海戦(1942年6月)だった。日本軍は、主力空母4隻と航空戦力の大半を喪失、太平洋の制海・制空権を一挙に失ったのである。福留繁(ふくとめしげる)作戦部長はじめ海軍は、敵空母の出現を予期していなかった。真珠湾の勝利におごり、米軍を侮っていた。
 さらに日本軍は、米軍の本格的な反攻時期の判断を誤ったまま、ガダルカナル島奪還作戦(42年8月〜43年2月)に突入した。杉山元参謀総長は、兵力の逐次投入という愚をおかした。田中新一作戦部長は、補給をめぐって東条英機首相を「バカヤロー」とどなりあげていた。
 制海・制空権を失った日本軍にとって、食糧や武器、弾薬などを船舶で補給する海上輸送は難しく、もはや、対米戦争を継続することが困難なことは、明らかだった。
 「統帥」に対する不信感から、東条は44年(昭和19年)2月、建軍以来のルールを破って参謀総長を兼務し、嶋田繁太郎海相にも軍令部総長を兼ねさせた。
 しかし、44年7月7日、サイパン島をはじめとするマリアナ諸島が陥落し、「絶対国防圏」は崩壊した。これは、国民にも大きな衝撃を与え、大本営陸軍部第二十班(戦争指導班)は、「今後帝国は作戦的に大勢挽回(ばんかい)の目途なく、逐次じり貧に陥るべきをもって、速やかに戦争終末を企図すべき」と結論づけた。
 ようやく東条内閣更迭の機運が高まり、7月18日、東条首相は退陣した。この3年前、参謀総長だった杉山は、天皇から日米開戦の場合の見通しを聞かれて、「南洋方面だけは3か月位でかたづけるつもり」と答えていた。杉山に限らず、東条体制を支えてきた陸軍の佐藤賢了軍務局長、海軍の永野修身軍令部総長、岡敬純軍務局長らは、勝利の見込みを失って何の成算もないのに「戦争完遂」をうたっていた。
 東条の後継内閣が、戦争指導班の厳しい現状認識を真摯(しんし)に受け止めることができれば、ここは戦争を終結させる好機だったといえる。
 ところが、小磯国昭(こいそくにあき)首相は、戦争終結に向けた真剣な議論を行わなかった。フィリピンでの対米決戦に勝利し、米国との講和を優位に進めたいとする「一撃講和論」の小磯は、「決戦を求める機会は今をおいて求めがたい」と、捷号(しょうごう)作戦とその後の本土決戦を決意する。
 小磯が新設した8月19日の最高戦争指導会議には、梅津美治郎参謀総長、杉山元陸相、及川古志郎軍令部総長らが出席した。この席では、「戦争完遂」「重大時局を克服突破」といった勇ましい言葉ばかりが飛び交っていた。
 44年(昭和19年)10月、日本軍はフィリピン・レイテ島での陸海戦で大敗を喫し、海空戦力の大半を失った。45年1月、大本営陸海軍部は、沖縄と本土での最終決戦を決意する。この段階で、硫黄島の玉砕(戦死者約2万800人)、沖縄戦(同18万8000人)の悲劇を回避する道は閉ざされたと言える。
    ◇
 【責任の重い人物】
 東条英機(首相兼陸相)、小磯国昭(首相)、永野修身(軍令部総長)、杉山元(参謀総長)、嶋田繁太郎(海相)、佐藤賢了(陸軍省軍務局長)、岡敬純(海軍省軍務局長)、福留繁(軍令部作戦部長)

 ■特攻・玉砕
 ◆「死」強いた大西、牟田口
 無謀な継戦で戦力を失った延長線上に打ち出されたのが、生身の人間が爆弾と化して敵艦などに体当たりする「特攻」だった。
 大本営陸海軍部は、44年(昭和19年)7月、「敵空母及び輸送艦を必殺する」との方針を打ち出した。10月初旬、軍令部総長の及川古志郎、軍令部次長の伊藤整一、軍令部作戦部長の中沢佑(なかざわたすく)、そして、マニラの第一航空艦隊司令長官への着任が決まっていた大西滝治郎(おおにしたきじろう)らが顔をそろえた。
 席上、大西は「第一線将兵の殉国、犠牲の至誠に訴えて、体当たり攻撃を敢行するほかに良策はない」と発言した。統帥の責任者である及川は、「涙を飲んで申し出を承認します。ただし、実行に当たっては、あくまで本人の自由意志によって下さい」と了承した。
 大西は米内光政海相に、「特攻を行って、フィリピンを最後の戦いとしたい」と言い残し、マニラに赴任した。大西は、第一神風特別攻撃隊を編成、10月25日、関行男大尉を指揮官とする13人の攻撃隊が、敵機動部隊に突入した。フィリピン決戦は45年1月まで続き、航空特攻による戦死者は約700人に上った。
 しかし、敗北を喫したにもかかわらず大本営陸海軍部はその直後、「陸海軍全機特攻化」を決定する。
 特攻攻撃からさかのぼること1年余りの43年(昭和18年)8月、軍令部第二部長(軍備担当)の黒島亀人(くろしまかめと)は、海軍首脳らを前に、航空特攻の必要性を強調した。
 同じころ、侍従武官の城英一郎(じょうえいいちろう)も、航空特攻の決行を大西航空本部総務部長に請願した。以後、黒島と作戦部長の中沢らを中心に、海軍は、有人爆弾「桜花(おうか)」、人間魚雷「回天」など特攻兵器の開発を続け、44年9月には「特攻部」を設立し、特攻をシステム化させてしまった。
 陸軍も44年3月、航空総監に後宮淳(うしろくじゅん)が就くと航空特攻の検討が本格化した。沖縄戦では、陸軍第六航空軍司令官・菅原道大(すがはらみちお)が旗振り役となり、体当たり攻撃が作戦の主役となった。終戦まで特攻で散った命は9500余に達した。
 一方、南方などの戦地では「玉砕」が相次いだ。太平洋の孤島で孤立する守備隊に対し、大本営の作戦担当者は「増援せず、撤退は認めず、降伏も許さない」という態度を、終戦まで変えようとしなかった。そして、この無責任と人命軽視の象徴が、44年3月からのインパール作戦だった。
 戦闘に参加した10万人の兵士のうち、7万2500人が死傷した作戦の悲惨さと異常さは、「第一線は撃つに弾なく、今や豪雨と泥ねいの中に、傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。軍と牟田口の無能の為なり」と、山内正文・第十五師団長が発した電文に尽くされている。
 部下の反論に耳を傾けず、執拗(しつよう)に作戦の実施を迫った第十五軍司令官・牟田口廉也(むたぐちれんや)の責任は重いが、これを抑止しなかったビルマ方面軍司令官・河辺正三(かわべまさかず)、作戦を許可した南方軍や大本営も問題が多い。
    ◇
 【責任の重い人物】
 大西滝治郎(第一航空艦隊司令長官)、中沢佑(軍令部作戦部長)、黒島亀人(軍令部第二部長)、牟田口廉也(陸軍第十五軍司令官)

 ■本土決戦
 ◆阿南、梅津徹底抗戦に固執
 ポスト東条の小磯国昭政権は、米内光政海相とセットで戦争指導にあたる、小磯・米内「連立」内閣としてスタートした。しかし、そもそも力量不足が指摘されており、終戦への指導力発揮は期待できなかった。
 結局、「一億総武装」を唱えて、多くの将兵の死を生み、沖縄戦の道まで用意して45年(昭和20年)4月、退陣した。この間、及川古志郎軍令部総長は、神風特攻隊や「大和」特攻を承認し、軍令部作戦部長の富岡定俊(とみおかさだとし)も、沖縄に出来る限りの兵力を注ぐべきだなどと主張していた。
 その後も、日本は沖縄決戦で多大な犠牲を生み、ソ連の参戦も招いて、2発の原爆に打ちのめされる。しかし、それでもなお、本土決戦で死中に活を求めたい、という軍人が存在したのである。
 8月9日深夜に始まった御前会議で、米内海相は、「国体の護持」のみを条件にポツダム宣言を受諾するという東郷茂徳外相の案に賛成した。これに対して、陸相の阿南惟幾(あなみこれちか)は、「この際は宜(よろ)しく死中に活を求むる気魄(きはく)を以て、本土決戦に邁進(まいしん)するを適當(てきとう)と信ずる」と説いた(高木惣吉海軍少将の手記『終戦覚書』弘文堂)。
 参謀総長の梅津美治郎(うめづよしじろう)と軍令部総長の豊田副武(とよだそえむ)も、「必勝を期する確算はないが、必らず敗れるとも断定できぬ」と本土決戦への決意を述べた。海軍の強硬派だった大西滝治郎軍令部次長はこの日、阿南に対し、「米内は和平ゆえ、心許なし」として陸相の奮戦を期待したい、と頼んでいる。
 大本営は、米軍の本土侵攻に備えて陸軍315万、海軍150万の配備を計画していた。国民こぞって徹底抗戦に出て、上陸してくる敵に一撃を与え、有利な条件をもって講和の道を探ることこそが戦争終結への道、というのが大本営の考えだった。
 本土決戦のための人事で陸軍省軍務局長に就任した吉積正雄は、参謀本部の宮崎周一(みやざきしゅういち)作戦部長に「勝利の目途如何」と質問している。宮崎の答えは「目途なし」だった。作戦の責任者が「勝つ見込みはない」と言い切ったこの時、国民は竹槍(たけやり)で米兵と戦う訓練を強いられていた。
 本土決戦を唱えた河辺虎四郎(かわべとらしろう)参謀次長は、ポツダム宣言の受諾が決まった8月10日の日記に、「唯々、『降参はしたくない。殺されても参ったとは云いたくない』の感情あるのみ」と書いた。翌11日の項には、「自惚(うぬぼれ)心、自負心、自己陶酔、自己満足……」の軍人心理が「今日の悲運を招来したるなり」とある。
 阿南も河辺も、降伏が決まった後は軍を平静に保とうと心を砕いた。阿南は8月15日に自決した。
    ◇
 【責任の重い人物】
 小磯国昭(首相)、及川古志郎(軍令部総長)、梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)、阿南惟幾(陸相)

 ■原爆・ソ連参戦
 ◆東郷“和平”で時間を空費
外交評論家の清沢洌(きよし)は、日米開戦後、この戦争が総力戦であればこそとしたうえで、「戦争に果敢なる日本国民が、同じ程度に外交に聡明(そうめい)であるかどうかが、将来に残された最も大なる課題である」(『日本外交史』)と書いた。しかし、果敢で聡明な外交を展開する指導者はついに現れなかった。
 45年(昭和20年)4月7日に発足した鈴木貫太郎内閣の外相、東郷茂徳は開戦時の外相だったこともあり、早期和平を期していた。その東郷が採ったのが、仮想敵国ソ連に和平仲介を頼むという「愚策」だった。東郷はもちろん、ソ連が同年2月のヤルタ会談で、対日参戦の密約を米英と結んでいたことを知らない。
 ソ連は鈴木内閣の発足直前の4月5日、日ソ中立条約の不延長を通告していた。阿南惟幾陸相や梅津美治郎参謀総長は、ソ連が参戦してくれば、本土決戦は危うくなると考えた。梅津らは、東郷にソ連参戦を外交努力で防いでくれと要請した。
 駐ソ大使の経験がある東郷は、「すでに手遅れ」と答えたが、軍部の要請を利用し、ソ連による和平仲介を試みてもいいと考えた。他に選択肢がない以上、東郷のこの判断は、無理からぬところがあった。
 東郷が責められるべきは、対ソ交渉に貴重な時間を空費したことである。
 東郷は、広田弘毅元首相によるマリク・ソ連大使との交渉に賭けたが、会談は6月3日の開始からもたつき、7月14日に中断するまで成果はなかった。駐ソ大使だった佐藤尚武(さとうなおたけ)は戦後、「貴重な一カ月を空費したことは承服できない」と語っている。
 ソ連の回答を待った結果、7月26日に発表されたポツダム宣言の受諾が遅れ、2発の原爆投下とソ連の参戦を招いてしまったのである。
 首相である鈴木の指導力にも疑問符が付く。最高戦争指導会議における6首脳のうち、早期和平派は東郷と米内光政海相、それに鈴木だったが、鈴木は、東郷や米内にも腹の内をみせなかった。
 6月6日の最高戦争指導会議では、資料「国力の現状」が配られ、日本はすでに戦争遂行能力を失った事実が報告された。
 しかし、会議は、国民の精神力を高めるといった処置をとれば、戦争継続は可能とする戦争指導大綱を決定し、6月8日の御前会議でも異論は出なかった。御前会議では、豊田副武軍令部総長が、上陸時における敵の損害見込みの数字を都合のいいように改ざんし、報告していた。
 阿南は、これらの会議でほとんど発言していない。早期和平に傾きつつあったとも考えられるが、具体的な行動に出なかった。
 鈴木はポツダム宣言の対応でも、大きな過ちをおかした。閣議では、東郷が宣言は拒絶せず、少なくともソ連から返事が来るまで回答を延ばすよう提案した。梅津、豊田は反発したが、結局、政府は宣言への意思表示はしないと決めた。
 だが、鈴木は、大西軍令部次長らの圧力もあって、記者会見でポツダム宣言は「黙殺するのみである」と述べてしまう。この発言が原爆投下、ソ連参戦の口実に使われた。
 木戸幸一内大臣とはかった鈴木首相が、結論を出さずに上奏し、天皇の聖断を2回も仰いで、昭和戦争はようやく終結したのである。
    ◇
 【責任の重い人物】
 梅津美治郎(参謀総長)、豊田副武(軍令部総長)、阿南惟幾(陸相)、鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)

 ◎企画「検証・戦争責任」の最終回〈「責任の重さ」−−次代のために〉は、15日朝刊に掲載します。

 《昭和戦争年表》
1928(昭和3)  6. 4 張作霖爆殺事件
  31(昭和6)  9.18 満州事変始まる
  32(昭和7)  3. 1 満州国の建国を宣言
           5.15 五・一五事件
  33(昭和8)  3.27 国際連盟脱退
  36(昭和11) 2.26 二・二六事件
          11.25 日独防共協定調印
  37(昭和12) 6. 4 第1次近衛内閣発足
           7. 7 日中戦争始まる
  39(昭和14) 9. 1 欧州で第2次世界大戦始まる
  40(昭和15) 9.27 日独伊三国同盟調印
  41(昭和16) 4.13 日ソ中立条約調印
           7.28 南部仏印進駐
          10.18 東条内閣発足
          12. 1 御前会議、対米英蘭
                開戦を決定
          12. 8 日米開戦、真珠湾攻撃
  42(昭和17) 6. 7 ミッドウェー海戦で敗北
  43(昭和18) 2. 1 ガダルカナル島から撤退開始
           5.29 アッツ島守備隊玉砕
  44(昭和19) 6.19 マリアナ沖海戦で敗北
           7. 7 サイパン島の守備隊玉砕
           7.22 小磯内閣発足
          10.25 神風特攻隊、初めて米艦に体当たり
  45(昭和20) 3.10 東京大空襲
           4. 1 米軍、沖縄本島に上陸
           4. 7 鈴木内閣発足
           5. 7 ドイツ、連合国に無条件降伏
           7.26 ポツダム宣言発表
           8. 6 広島に原子爆弾
           8. 8 ソ連、対日宣戦布告
           8. 9 長崎に原子爆弾
           8.14 御前会議、ポツダム宣言受諾を最終決定
           8.15 天皇の終戦詔書を放送
           9. 2 米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印

「昭和戦争」読売新聞検証報告 戦争の惨禍、指導者責任

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「騒音協定」機能せず

「騒音協定」機能せず 繰り返される夜間飛行 沖国大ヘリ墜落2年

 13日で沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落してから2年が経過したが、危険性を取り除くための普天間飛行場の飛行経路の再検討もいまだ明確にされておらず、危険性はそのまま放置され続けたままだ。現状でも十分な安全対策を取っているという米軍側の論理が優先する中で、今後の事故対応への懸念も残る。現在の普天間飛行場の現状と問題を探った。
 米軍ヘリ墜落事故から2年が経過しても、住宅地上空での旋回訓練は繰り返され、住民にとって危険性が改善されたという実感はない。
 事故後、普天間飛行場周辺の住宅地上空の飛行は全体的に前年を下回り、一時的には減った。しかし、2005年4月にイラクへの派遣部隊が帰還して以降、飛行訓練は激化。06年1月から断続的にグアム、フィリピンなどの海外演習に出たが、それ以外の期間は事故前と同程度の飛行をしている。騒音防止協定に定められている午後10時以降の飛行も相次ぎ、6月2日には午前1時すぎまで離着陸するなど住民生活に影響を与えている。
 県の普天間飛行場周辺の騒音測定によると、上大謝名地区で、事故前の04年7月までの1年間は、月平均2000―3500回の飛行と頻繁だった。
 04年8月のヘリ事故、直後の普天間飛行場所属第31海兵遠征部隊のイラク派遣で8カ月間の飛行回数は前年を下回ったが、06年は海外演習から帰還した4月と6月に2000回を超え、市民から市への騒音苦情も48件寄せられた。旋回訓練は繰り返されており、ヘリ事故で指摘された住宅地上空の危険性は、今も変わっていない。

「騒音協定」機能せず 繰り返される夜間飛行 沖国大ヘリ墜落2年

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旧日本軍フィリピン占領(連載)

[平和を願う](1)旧日本軍フィリピン占領(連載)=大分

 ◇おおいた戦後61年
 ◆出征の父に代わり償い 日田の原田さん、子どもの学業支援15年続ける
 「旧日本軍の占領で戦場と化し、多くの犠牲者を出したフィリピンに罪滅ぼしをしたい」
 日田市亀川町、自動車整備会社経営原田登さん(68)は、占領軍としてフィリピンに出征した父、兼吉さん(故人)に代わる償いとして、15年前から、現地の貧しい子どもたちの学業を経済的に支援する「里親制度」に協力している。
 「里親制度」は、同国で奨学活動に取り組む社団法人「ジャフィール協会」(本部・マニラ、島田栄理事長)の運営。現地を訪ねた時に島田理事長と知り合い、趣旨に賛同した。
 対象は、両親がいなかったり、いても収入が少なく満足に学校に通えなかったりする子どもたち。小学校、中学校、大学と年代に応じて年間1万円〜1万5000円を援助している。
       □   ■
 島田理事長に出会ったのは1991年1月。体調を崩していた母、フミヱさん(88)に代わり、戦死した兼吉さんの慰霊祭で初めてフィリピンを訪ねた時だった。
 兼吉さんは、占領地だったルソン島に出征。終戦間近の1945年8月9日、食料を調達中に現地のゲリラに襲われ、34歳で命を落とした。
 慰霊祭には、記憶の中にある優しい父に触れることができるような気がして参加を決めた。だが、そんな感傷的な思いは、現地入りしてうち消された。
 移動中のバスにパンツ1枚の子どもたちが群がり、食べ物をねだってきた。その姿に、「近くの農家に頭を下げ、食べ物をもらいに行った終戦当時の自分の苦しい生活が重なった」。
 島田理事長が現地の案内役で、「貧しい子どもたちの学業を支援する里親制度を作っている」と教えてくれた。帰国後もパンツ1枚の子どもたちの姿が脳裏に残り、「父親が亡くなった地。戦争で平和を荒らされた地。何とかしてあげたい」と、里親登録を申し込んだ。
 原田さんは、夫を失ったフミヱさんが製材所で働いたり、内職したりして3人の子どもを育てる苦しい家庭に育った。高校に進学したかったが、長男として家計を助けるため、中学卒業後、すぐに自動車整備工の見習いとして働いた。
 経済的な理由から進学できなかった自らの体験も、支援の手を差し伸べる動機となった。
 現在、小学5年生の女児を支援している。年1回の送金以外にも、クリスマスに靴やノート、せっけんなどを袋いっぱいに詰めて送っている。
 仕事や費用の関係で里子を訪ねたことは2回しかないが、年に4、5回来る里子からの手紙が何よりも楽しみだ。「雨期に入りました。仕送りで傘を買うことができます」「将来は音楽の仕事がしたい」。親しみのこもった文面に、ついつい目じりが下がるという。
       □   ■
 父親が戦死した地の子どもたちを支援し、ささやかながら平和に貢献したいと続けている支援活動。だが、複雑な思いもした。
 最初に里親をした男の子は、大学を卒業して軍人になったのだ。
 政情が不安定なフィリピンでは、今でもゲリラと政府軍の小競り合いが後を絶たないという。「止めたかったが、就職自体が難しいフィリピンの国情を考えると安定した職業。仕方がない」。そう思ってみるが、「父のように戦死してしまうのでは」との不安は消えない。
 〈占領による、あの混乱がなければずっと平和な国だったかもしれない〉
 日本人として、そんな自責の念にかられることもある。「どうか、一日も早く平穏な国に」。原田さんは“息子”の身を案じながら、日々、そう祈っている。(後藤敬人)
       ◇
 戦後61年。戦争の記憶の風化が叫ばれる一方で、強く平和を願い行動する人たちがいる。その思いを取材した。

[平和を願う](1)旧日本軍フィリピン占領(連載)=大分

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比国で終戦 望郷の念

比国で終戦 望郷の念

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■米軍のビラ 投降を決断

 「大東亜戦争終結す」と書かれたビラが昭和二十(一九四五)年八月十五日、米軍の飛行機からまかれた。歩兵部隊員として米軍と戦闘を続けたフィリピンのネグロス島でそのビラを読み、終戦を知らされた。

 圧倒的に優勢な米軍の激しい攻撃を受けて密林の中へ後退し、補給が断たれ食糧も尽き果てていた。それでも「日本は負けるはずがない。いつか必ず神風が吹く」と固く信じていた私は、投降を迫る米軍のビラに憤り反発したが、結局は投降を決断するほかなかった。

 戦闘がなく、飢えに苦しむこともない捕虜収容所で「戦争が終わった。平和になるんだ」と実感した。そして「祖国へ帰りたい。早く迎えに来てほしい」と望郷の念もわいた。ようやく翌年の十二月三十日、母が待つ野田に帰ることができた。

 応召したのは日本軍の戦況が悪化してきた昭和十九(四四)年三月。二十一歳で陸軍佐倉連隊に入隊した。フィリピン派遣で七月に門司港を出航したが、直前に船の乗り換えを命じられた。私が乗船を当初予定していた船は航海の途中、魚雷で撃沈されてしまった。

 マニラから十一月にネグロス島へ転進した。翌年の春に米軍が全島に上陸すると攻撃は激化し、部隊が後退して入った密林は敵の砲火で焼け焦げた。毎日続く交戦で戦友は次々と倒れ、負傷兵の包帯の中や死体からウジがわき、悪臭を放った。

■飢えしのぐ 草すらない

 食糧がなければ草でも食えると言われたが、先に来ていた部隊が食いあさった後で、その草すら口にすることができなかった。オタマジャクシがうまいと思ったものの、ヌルヌルと気持ち悪く一回でやめた。極限の中で何を食べて飢えをしのいだか全く覚えていない。病気が蔓延(まんえん)して、銃弾にあたらなくても病死した兵隊が多かった。

■歩けぬ兵に 手榴弾渡す

 降伏して捕虜収容所に向かうことになったが、負傷や病気で歩いて行けない兵隊には「苦しみながら死ぬのはかわいそうだ」と、自決用の手榴(りゅう)弾を渡して別れた。部隊千五百八十二人のうち生存者は六十八人、そして今も健在なのは三人だけ。

 戦争体験の話が若い人たちに平和へのメッセージになればと、「独立行政法人平和祈念事業特別基金」から「語り部」を委嘱され、平和祈念展示資料館(東京都新宿区)の見学者に語り継いでいる。 (聞き手・川田栄)

永野 平蔵さん(84)野田市  1922年7月、野田市生まれ。44年3月、陸軍佐倉連隊に入隊。44年11月、フィリピンのネグロス島に上陸。45年8月、米軍に投降し46年12月、名古屋港をへて野田に帰還。

比国で終戦 望郷の念

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「愛国心」の風景(1) 元予科練生

「愛国心」の風景(1) 元予科練生

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戦中、生き残った特攻隊からもらったヤシ酒の器。角田さんは見るたびに当時を思い出す=かすみがうら市で

 1942年11月、ソロモン諸島沖。澄み渡った青空の下、ラバウル海軍航空隊の一員だった角田和男さん(87)=かすみがうら市=の零戦は、米軍戦闘機グラマンF4Fに近づこうと、高度2千メートルから一気に上昇していった。


 「ガン、ガン、ガーン」。


 グラマンの機銃弾が、激しく機体をたたきつけた。零戦8機で、ガダルカナルの陸軍部隊の補給に向かう輸送船団を護衛するのが任務だった。


 零戦隊がグラマンを攻撃して引きつけ、輸送船団の被害を小さくすることに成功した。この戦闘で、角田さんの零戦は穴だらけになりながらも、ラッセル島近くの海面に不時着。日本海軍の船に救助された。


 今年米寿を迎える角田さんは、「弾を受けている最中も、なぜかふわっと温かい思いがこみあげてきた。今思えば、それは『愛国心』からだったと思う」と振り返る。


 千葉県の農家に生まれた角田さんが、予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊したのは34年。約3年後、阿見町に当時あった霞ケ浦海軍航空隊に飛行練習生として入り、中尉として終戦を迎えるまで、戦闘機パイロットとして数々の激戦を戦った。


    ◇


 44年10月30日。フィリピン・レイテ島沖で炎に包まれた零戦が、米海軍空母に向かって突入した。角田さんは神風特攻隊「葉桜隊」を敵艦隊まで誘導し、戦果を確認する担当だった。


 米空母からは、真っ黒な煙が高く上がっていた。突入したパイロットは17歳。角田さんが戦果確認を担当した特攻隊員は、この少年を含め10人。「みんな、『国のために任務を果たす』という思いがあった」と思いを寄せる。


 終戦後、角田さんは特攻隊員の遺族をたずねて回った。少年の父親とは77年夏、一緒にレイテ島を訪ねた。「最期を伝えるのは、自分の役目だと思っていた。ただ、『成功して良かった』とは、とても言えなかった」と話す。


 戦争では、命がけで愛国心を表現するしかなかったと、角田さんは思う。だが、角田さんにとっては、葉桜隊が突入した夜、特攻出撃を控えた若い10人ほどの搭乗員が、薄暗い搭乗員室に集まり、ドアを開けたとたん、自分を鬼気迫る顔で見つめてきた姿が、いまも忘れられない。


 「愛国心とは心の問題であり、押しつけたり、押しつけられたりするものではない。日本民族が幸せに暮らせるよう、真心をもって生活する心があればいい」とつぶやくように語る。


    ◇


 今月8日、阿見町の陸上自衛隊武器学校。セミの声が響き渡る中、土浦海軍航空隊があったこの場所で、予科練出身者でつくる「茨城雄飛会」主催の慰霊祭が行われた。


 42年に卒業し、ラバウルなどで攻撃機に乗り、偵察任務についていた松田政雄さん(81)=水戸市=は、この日も花を供えながら当時をしのび、そして冥福を祈った。


 予科練出身者や遺族らでつくる「海原会」の会長を務めた松田さんは、亡くなった人を慰めることが生き残った自分の役割だと思う。一方で、愛国心をめぐる議論が高まる中、松田さんは思うことがある。


 「当時の私たちは、国のために戦うしかないと思っていた。今でも自分のことばかりを考えるのではなく、社会や国のために働くという心は必要と思う。でも戦争は二度と起こしてはならない」


    ◇


 戦後61年。様々な場で、「愛国心」という言葉が再び注目を集めている。県内の風景を追った。(この連載は久保智祥、田内康介、岡田玄が担当します)



 〈予科練〉
 1930年、横須賀海軍航空隊に、14歳以上の選抜試験を通過した少年を熟練した搭乗員に養成する制度として設けられた「海軍飛行予科練習生(制度)」の略称。
 39年、阿見町の霞ケ浦海軍航空隊に教育場所が移転。40年に土浦海軍航空隊として独立した。予科練の教育場所は全国に広がったが、土浦がその中核的存在だった。
 卒業者は約2万4千人。8割が主に太平洋戦争で戦死したとされる。海軍の特攻隊員の多くは予科練出身だった。

「愛国心」の風景(1) 元予科練生

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フィリピンの「新日系人」たち

遠い故国:フィリピンの「新日系人」たち/5止 絆

 ◇転落の一途、父支えた子
 「おれのことはもういい。おまえが日本で就職して、幸せになれば」
 50歳を超えた父の言葉に、20歳の息子は「何を言ってるんだ。一緒に日本に戻ろう」と流ちょうな日本語で言い返した。
 フィリピン人の母と日本人の父は、日本で知り合った。息子が生まれた。父の仕事は順調だったが、バブル崩壊で地方の小さな店の経営はあっという間に行き詰まった。90年4月、一家はフィリピンに移り住んだ。
 それからは転落の一途だった。家に強盗が入り、財産を処分して作ったカネを奪われた。91年、母が銃で撃たれた。父は「カネのトラブルらしい」と言う。その母が92年、突然失踪(しっそう)した。覚せい剤中毒になっていた。
 すべてを失った父は「日本へは帰れない」と思った。英語も現地語も出来ない父が頼りに出来たのは幼い息子だけだった。息子は家に閉じこもる父と日本語で話し、心を支えた。「おれは弱い人間だから一人では生きていけない。息子がいなければ、どうなっていたか」。親子の絆(きずな)が父を救った。
 その息子が悔し涙を流したことがある。大学に進んだが、学費が続かなかった。フィリピン国籍はなく、奨学金申請も出来ない。「大学を出て父との生活を立て直そう」という夢はついえた。日本へ戻ろうにもビザは期限切れで、数十万円の罰金を支払う必要がある。
 息子は今、支援団体の力を借りて日本へ戻る方法を探している。それに成功すれば、日本で就職して稼ぎ、父を日本に呼び寄せるつもりだ。
◇  ◇  ◇
 7月、支援団体を通じて20人以上の新日系人とその家族の日本での就職が内定した。遠い故国が彼らをどう迎え入れるか。フィリピンに残る人たちは、その成り行きを見守っている。

フィリピンの「新日系人」たち

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兵士を消耗品と軍は考えていた

戦争と平和を語る会:「兵士を消耗品と軍は考えていた」和田理事が批判 /高知

 戦争の悲惨さを語り継ぎ、平和の大切さについて考えようと、「戦争と平和を語る会」(高知市老人クラブ連合会主催)が8日、高知市で開かれた。終戦記念日関連の特別行事として毎年開かれており、同市内の老人会のメンバーら約80人が出席し、平和の尊さに思いを巡らせた。【袴田貴行】
 ◇すいとんで不戦誓う
 冒頭、出席者らは黙とうして戦争の犠牲者の冥福を祈った後、同連合会の和田寿美男理事(86)が、自らの従軍体験を語った。和田理事は1941年11月に召集され、旧陸軍歩兵第141連隊に入隊。太平洋戦争開戦直後の42年1月、フィリピン・ルソン島に上陸して米軍と交戦、その後、ビスマルク諸島ニューブリテン島に転戦し、終戦を迎えた。
 和田理事は「米軍は陸・海・空軍を駆使し、自軍の兵隊を殺さないような戦い方をしていたが、日本軍は兵士はいくらでも補充できる消耗品と考え、突撃ばかり繰り返していた。明治時代のような戦闘で勝てるはずがない」と批判。
 また、靴が破れてはだしのまま行軍し、道すがら、日本兵の無残な死体がいたる所に転がっていたことを振り返り、「あんな思いはもう二度としたくない。戦争は絶対にすべきではない」と声を絞り出した。
 出席者らにはその後、戦時中によく食べていたすいとんが振る舞われた。同市大津甲の無職、本木敏子さん(74)は「あのころは毎日食べさせられて嫌で仕方がなかった。今日の話を聞いて、戦争は二度とやってはいけないと改めて思いました」と話していた。

「兵士を消耗品と軍は考えていた」和田理事が批判

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刻まれた記憶 硫黄島の61年

【刻まれた記憶 硫黄島の61年】(1)声なき慟哭 長さ18キロ、壮絶な地下壕

 自衛隊の輸送機から降り立った拓殖大学4年、地引亮(22)=茨城県=の肌に、南国の強い日差しが照りつけた。東京から1250キロ。自らに課した使命を、改めて心の中で反芻(はんすう)していた。
 第二次大戦の激戦の地、硫黄島(東京都小笠原村)。わずか22平方キロメートルの小島で、昭和20年、日米両軍が壮絶な戦闘を繰り広げた。日本側死者の約6割にあたる1万3000人は、いまなおこの地に眠る。
 43年に米国から返還されたが、いまだ島民の帰島すらかなっていない。今は自衛隊の基地となっているこの島に、地引は6〜7月、政府が実施した「戦没者遺骨収集」のメンバーとして訪れていた。
 青い海と空に囲まれた風景は一見、南の島特有の穏やかさを保っている。岩が剥(む)き出しの荒れ果てた島をイメージしていたが、案外緑も多い。少し驚いていると、収集に何度も参加している70代の遺族が教えてくれた。「多数の日本兵の遺体からでる死臭を消すために、米軍が空からギンネムの種をまいたんだ」
 海に面した岩という岩には、無数の弾痕が残っていた。少し奥地に入ると、道端には慰霊碑が立ち並び、さびた大砲や機関銃が空を見つめている。地引は、人々のたどった過酷な運命を、思わずにはいられなかった。
                  □     □
 第二次大戦で亡くなった戦没者は約240万人。政府の遺骨収集事業は26年ごろから始まり、民間の遺骨収集や復員兵が持ち帰ったものを含めて約124万5000柱が日本の地で眠っている。
 しかし、約115万5000人の遺骨は海外などに残されたままで、戦後60年を過ぎた今でも、遺骨収集は硫黄島のほか、シベリア、フィリピン、ニューギニアなどで年1〜2回行われている。多くの地域では、調査の主軸が野戦病院近くなどの埋葬地へとシフトしている。
 政府は、遺族や当時の様子を知る人の高齢化などで情報が減少する中、3年後の事業終結を示唆する。遺骨収集事業そのものが、大きな岐路に立たされている。
                  □     □
 59年生まれの地引にとって、戦争は、同世代の多くの若者と同じく「現実味がない」過去のものにすぎなかった。しかし、大学に入って戦争に関する書物に触れたことや、同じ学生寮の先輩に誘われたことがきっかけとなり、3年前、沖縄での遺骨収集に初めて参加した。
 ジャングルで土を掘っていて、偶然、茶色っぽい塊を手に取った。歯が並んだ人間のあごの骨−。思わず声をあげて手を離した。が、次の瞬間こう感じた。
 「国のために亡くなった人たちが今でも放置されている。同じ日本人として、故郷に帰してあげたい」
                  □     □
 硫黄島では激しい戦闘で埋葬の余裕さえなく、たくさんの遺骨が、日本軍が掘った全長18キロに及ぶ地下壕内などに放置されたままになっている。地形の変化や情報不足などもあり、時とともに困難さが増している。
 壕の中は、地熱で軽く40度を超える。猛烈な暑さと落盤の恐れが、作業の進行を阻む。
 連日30度を超す炎天下。木が刈り取られ、周囲に日陰がない中、地引らは自衛隊員が壕内で掘り出した土を運び出したり、遺骨や遺留品を選別する作業を黙々と続けた。
 壕の壁には、兵士たちのツルハシの跡がびっしりと残る。激しい飢えと乾きの中、日本兵は、持久戦に備えてひたすら壕を掘り続けたのだろう。
 運び出した土の中から、歯や遺骨とともに、薬瓶や小銭、多くの銃弾や手榴(しゅりゅう)弾なども発見された。部隊名が書かれた氏名入りの布袋の切れ端もみつかった。当時の兵士の息づかいや、壕を掘る苦しさが伝わってくる。
 自らが生まれるはるか40年も前にここで力尽き、いまなお家族のもとに帰れない兵士たち。
 作業を終えた夜、島の空には無数の星が現れる。「過酷な戦闘で亡くなった人たちがいる。そして今も迎えを待っている…」。星が美しく輝くほど、兵士たちの慟哭(どうこく)が聞こえるようだった。
 =文中敬称略
 (池田祥子)
                    ◇
 硫黄島戦を題材にした書物や映画の制作が話題を集めるなど、いま改めて注目を集める硫黄島。だが、いまだ多くの遺骨が眠ったままだ。戦没者は何を語り、遺族や生還者は何を思うのか。島に残された記憶から、戦後61年をたどる。
                    ◇
 【用語解説】硫黄島戦
 第二次大戦で、日米双方にとって戦略的に重要拠点だった同島をめぐり、両軍計約10万の兵士が昭和20年2〜3月に繰り広げた戦闘。栗林忠道中将が総指揮官を務める日本軍は地下壕での持久戦に持ち込もうとしたが、米軍上陸から26日後の同年3月17日、栗林中将が大本営に決別の電文を打電。総攻撃をかけ、26日に組織的戦闘は終了した。死者は日本側2万1900人に対し米側約6800人だが、米側の負傷者は約2万2000人に上り、米軍の死傷者数が日本軍を上回った。

【刻まれた記憶 硫黄島の61年】(1)声なき慟哭 長さ18キロ、壮絶な地下壕

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栃木県在住、ピナ嫁と娘一人でつつましく貧困に耐え忍びながらむつましい生活を送っています(T_T)








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